[草津のあんちゃん日記]

草津高校同窓会第64回新聞会報

私の履歴書 草高第7回卒 学校評議員 平成24年3月1日
創立九十年という歴史と伝統を誇る草津高校を卒業される諸君、卒業おめれとう。
これから始まる社会勉強のために、私が歩いてきた苦しい時代の経験を、少し振り返りなが
ら、これから先、君達がどんな苦境に出会っても強くたくましく生き抜いてほしいと願
うた め、私の履歴書の中から抜粋して少し紹介したいと思う。
小生、旧東京市浅草区にて昭和10年8月21日誕生、昭和18年4月金龍国民小学校に
入 学。当時の当小学校は鉄筋五階建ての上全面コンクリートに舗装された運動場があり、

樹木豊かな金龍公園が隣接する環境にあった。近くには国際劇場という多目的な娯楽の殿堂や浅草ロック、
有名な観音様を中心に広がる仲見店、ひょうたん池、当時照国が全盛の国技館等があり、経済的にも恵まれ、
華やかな都会生活を満喫し、優雅に過ごしたほんの短い幼少の日々であった。
同年12月突然に一家は滋賀県に移り何故かよく理解できぬまま信楽国民小学校に転入しなければならない
羽目になった。一転した田園での生活になじめず、それが親等への反抗となり、近辺の悪ガキと友に日々を過し、
翌年3月には甲賀開拓団として赴く事となった父に同行し、新潟港より朝鮮経由の船で満州に渡った。
開拓地の農場は春の作付準備の最中で畑の畝が三筋で一反(1,000m2)という広大なものであった。
小学校は自宅から八Kmも離れ、片道の所要時間二時間半、遅刻ばかり続き途中で弁当だけを食べ帰宅する日もあった。
昭和20年8月9日敗戦の色はますます濃くなり、大砲の音が遠くで聞こえるようになり、
避難命令が下り直ちに、手荷物のみを持ち避難したが、途中で川に架かる橋が次々に破壊される光景を目前にし
石炭を運ぶ無蓋車に乗せられ逃げる恐怖は今でも鮮明に脳裏に焼付いている
翌日奉天の小学校に避難所を与えられ、各地から数万人の日本人が集まり、所狭しと牛車や
家財道具でごったかえす中、運命の終戦の日が来た。不安と失望の奈落につきおとされた人々の間には
種々の情報やデマが飛び交い満州人、朝鮮人の略奪が始まり、ソ連の軍隊が進駐してからは現地での
様相は一変し、目をおおうばかり無法行為(強盗、強姦、銃殺刑)が繰り広げられたのである。
その後、ソ連の正規軍、中国軍により治安が回復し、日本人としての行動が許されるようになり、
身一つ着のみ着のまま逃げてきた自宅 (琿春 )に帰りたく日本にこのまま戻る気になれずいた開拓団員約30名は
飲まず食わずで、1ケ月歩いて現地に着き帰宅したが、
家財道具はもちろん、建物も塀もなく、畑の作物も一切収穫されて跡形もなくなっている上、
全員近くの炭坑に収容され強制労働を強いられ、「働かざるもの食うべからず 」と働く事が出来ない、
子供や年寄りには日当の食料はなく、私も近隣の農家に働きに(奴隷的) 行かねばならなかった。
それからの一年四ヶ月 昭和21年10月末に帰国するまで、一緒にいた日本人約二千五百人の内、
帰国で来たのは、わずか一千人あまりしかいなかったのである。
一年間余に六割の一千五百人も死亡した事になる極限状態は、およそ言語に尽きるものであった。
内には〜現地妻、中国孤児となった人もいたが………。
そして、中国国民軍の配慮により帰国する事なり、昭和21年11月に貴生川の天理教内に
引き揚げて来ました。その後父の姉 南笠に落ち着き昭和21年11月老上小学校に一年遅れて
転入学し、昭和22年4月からは草津小学校の五年生に編入学し、数えて五回の転校をした次第である。
戦争と敗戦、親子八人の土地もなく、家もないという惨めな貧困生活、時の流されるままの日々の中で
強いられた底の深い体験を何とか自立えの養分にして、 人間的な飛躍への可能性へと導いていかねば、
明日への展望はないと、文字通りの暗中模索の笠山開拓生活だった。そして、自滅の道はもとより
選べつ激動期に生まれ合わせた事を不幸と思う観点を変え、そういう時代に生まれたからこそ、
この体験を底力に多方面にわたる人間的な可能性を、自分史の中で、活き活きと自分の役割りを
精一杯果たして死んでゆく人間の一人に成りたいという信念が、徐々に自分の中でで、確立されて行き、
なりたいものと念じている。
卒業生が、立ち向かうこれからの社会生活において、「私の履歴書」から人間としての可能性
を見出すための一助となる事を心から願っている。
卒業生の前途に幸多かれと祈念して………………。

この写真は東京浅草にて昭和18年4月金龍国民小学校入学記念の家族写真を実家の祖母が残してくれた、ただ一枚残してくれた遺産です。
全アルバム写真は満州に預けて来ました。