[草津のあんちゃん日記]
芦浦観音寺・蘇我氏一族
蘇我氏とは 蘇我氏(稲目・馬子・蝦夷・入鹿) (いなめ・うまこ・えみし・いるか)は
6世紀まで無名の豪族であった。
・蘇我氏は畝傍山の豪族。勢力を伸ばしつつ渡来人と深くつながリ、支配下に置き朝鮮半
島と交流するために必要な語学・農具・武器の生産技術・高度な生産技術・情報を
得ることができた。
・それにより蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿の4代直系ー族による政権中枢独占体制を
築いていった。
・蘇我氏の権力・地位を大きくしていく源は「政略結婚」であった。
・系図で解るように、天皇家と蘇我氏のつながりを見るとー目瞭然である。(別紙)
・29代欽明天皇(539〜571年)に始まり、30代敏達天皇572〜585年)
31代用明天皇(585〜587年)32代崇峻天皇(587〜592年)33代
推古天皇(592〜628年)34代舒明天皇(629〜641年)35代皇極天皇
(642〜645年)36代孝徳天皇(645〜654年)37代斉明天皇(655〜
661年)38代天智天皇(661〜671年)39代弘文天皇(671〜672年)
40代天武天皇(673〜686年)41代持統天皇・42代文武天皇・43代元明天皇
44代元正天皇・45代聖武天皇・46代孝謙天皇・47代淳仁天皇・48代称徳天皇
と539年〜770年の永きに渡り天皇家との縁にしを持ちつずけた。
蘇我稲目は二人の娘を政略的に29代欽明天皇の妃とする。大臣(おおおみ)に任じられ
る。 538年百済より金銅の釈迦如来像・経典・仏具が献上される。
物部尾輿・中臣鎌足「国つ神」が怒ると反対する。天皇は稲目に授ける。稲目は自宅に
安置、最初の寺となる。その後疫病が流行、物部尾輿(大連) 天皇の許可のもと焼き払う。
570年蘇我稲目死去。
584年再び 百済より「弥勒菩薩」献上
物部尾輿・中臣鎌足「国つ神」が怒ると反対する。 敏達天皇は蘇我馬子は寺に
安置。
物部氏・蘇我氏再び対立激化。
585年疫病流行、物部守屋敏達天皇の同意をえて寺を焼き払う。
敏達天皇・用明天皇疫病にて病死。
587年蘇我氏(崇仏派) 物部氏(廃仏派)の戦い激化。14歳 厩戸皇子(聖徳太子)も蘇我氏側について戦う。
物部氏(廃仏派有力豪族滅ぼされる。(丁未の乱)
588年蘇我馬子「仏教」を広めるため飛鳥寺建立、聖徳太子と共に仏教を基盤とした
国造を行なう。飛鳥寺は東西210m・南北320m・塔の高さ40m・3つの
金堂の瓦葺きの大寺院。光リ輝やく飛鳥大仏は一丈6尺(4.85m)
592年蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。敏達天皇の妃 炊屋姫(稲目の孫娘)を
33代推古天皇とする。推古天皇の甥(おい)の聖徳太子が摂政となり
政治行った。ここに推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の血族による
権力集中の政治体制が確立した。
642年皇極天皇より蘇我蝦夷(えみし)入鹿(いるか)父子が朝廷での実権を握た。
蝦夷は遣唐使を何度も派遣し唐の文化を積極的に導入し・遣唐使で帰国した
者たちに塾を開かせ豪族子弟を学ばせた。入鹿も学ぶ一人で、同塾生に中臣鎌足
もいた。
643年蘇我入鹿「大臣(おおおみ)紫の最高位」となり、外交・財政を一手に握る
蘇我入鹿は百済はもちろん、新羅・高句麗とも国交を結ぶ。この政策に反対した
聖徳太子の子次期天皇候補の「山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)」を
殺害しその上、聖徳太子一族も滅ぼし、蘇我氏の権力はさらに強大になった。
644年蘇我蝦夷・入鹿は甘橿(あまかし)丘にそれぞれが、居を構えた。
645年皇極天皇4年「大化の改新」飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子(なかのおおえのみこ・
天智天皇)・中臣鎌足(なかとみのかまたり・藤原鎌足)らが実行犯となり、
蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自ら邸宅に火を放ち自殺。
蘇我一族体制に終止符を打った。
(資料:蘇我氏と聖徳太子家系図)

6世紀まで無名の豪族であった。
・蘇我氏は畝傍山の豪族。勢力を伸ばしつつ渡来人と深くつながリ、支配下に置き朝鮮半
島と交流するために必要な語学・農具・武器の生産技術・高度な生産技術・情報を
得ることができた。
・それにより蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿の4代直系ー族による政権中枢独占体制を
築いていった。
・蘇我氏の権力・地位を大きくしていく源は「政略結婚」であった。
・系図で解るように、天皇家と蘇我氏のつながりを見るとー目瞭然である。(別紙)
・29代欽明天皇(539〜571年)に始まり、30代敏達天皇572〜585年)
31代用明天皇(585〜587年)32代崇峻天皇(587〜592年)33代
推古天皇(592〜628年)34代舒明天皇(629〜641年)35代皇極天皇
(642〜645年)36代孝徳天皇(645〜654年)37代斉明天皇(655〜
661年)38代天智天皇(661〜671年)39代弘文天皇(671〜672年)
40代天武天皇(673〜686年)41代持統天皇・42代文武天皇・43代元明天皇
44代元正天皇・45代聖武天皇・46代孝謙天皇・47代淳仁天皇・48代称徳天皇
と539年〜770年の永きに渡り天皇家との縁にしを持ちつずけた。
蘇我稲目は二人の娘を政略的に29代欽明天皇の妃とする。大臣(おおおみ)に任じられ
る。 538年百済より金銅の釈迦如来像・経典・仏具が献上される。
物部尾輿・中臣鎌足「国つ神」が怒ると反対する。天皇は稲目に授ける。稲目は自宅に
安置、最初の寺となる。その後疫病が流行、物部尾輿(大連) 天皇の許可のもと焼き払う。
570年蘇我稲目死去。
584年再び 百済より「弥勒菩薩」献上
物部尾輿・中臣鎌足「国つ神」が怒ると反対する。 敏達天皇は蘇我馬子は寺に
安置。
物部氏・蘇我氏再び対立激化。
585年疫病流行、物部守屋敏達天皇の同意をえて寺を焼き払う。
敏達天皇・用明天皇疫病にて病死。
587年蘇我氏(崇仏派) 物部氏(廃仏派)の戦い激化。14歳 厩戸皇子(聖徳太子)も蘇我氏側について戦う。
物部氏(廃仏派有力豪族滅ぼされる。(丁未の乱)
588年蘇我馬子「仏教」を広めるため飛鳥寺建立、聖徳太子と共に仏教を基盤とした
国造を行なう。飛鳥寺は東西210m・南北320m・塔の高さ40m・3つの
金堂の瓦葺きの大寺院。光リ輝やく飛鳥大仏は一丈6尺(4.85m)
592年蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。敏達天皇の妃 炊屋姫(稲目の孫娘)を
33代推古天皇とする。推古天皇の甥(おい)の聖徳太子が摂政となり
政治行った。ここに推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の血族による
権力集中の政治体制が確立した。
642年皇極天皇より蘇我蝦夷(えみし)入鹿(いるか)父子が朝廷での実権を握た。
蝦夷は遣唐使を何度も派遣し唐の文化を積極的に導入し・遣唐使で帰国した
者たちに塾を開かせ豪族子弟を学ばせた。入鹿も学ぶ一人で、同塾生に中臣鎌足
もいた。
643年蘇我入鹿「大臣(おおおみ)紫の最高位」となり、外交・財政を一手に握る
蘇我入鹿は百済はもちろん、新羅・高句麗とも国交を結ぶ。この政策に反対した
聖徳太子の子次期天皇候補の「山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)」を
殺害しその上、聖徳太子一族も滅ぼし、蘇我氏の権力はさらに強大になった。
644年蘇我蝦夷・入鹿は甘橿(あまかし)丘にそれぞれが、居を構えた。
645年皇極天皇4年「大化の改新」飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子(なかのおおえのみこ・
天智天皇)・中臣鎌足(なかとみのかまたり・藤原鎌足)らが実行犯となり、
蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自ら邸宅に火を放ち自殺。
蘇我一族体制に終止符を打った。
(資料:蘇我氏と聖徳太子家系図)
